アリス・シンドローム


 ミタマ地方への帰省は決して珍しいことではなかった。チャンピオンとしての仕事を果たしに来るために二ヶ月に一度は一人で戻ってくるし、神子の仕事が立て込んでしまえばアスナは一ヶ月以上このミタマ地方で過ごす。この地方を解放した英雄としての役割をきちんと認識しているのだ。
 そもそも――アスナはこのミタマ地方が好きだった。過去を思い返せば、この地方が嫌いになるのではないかと不躾に聞いてきた者もいたがあまりそういう感情はない。自分だって似たようなものだったのだ。人間なんて、と上から見下ろしていたあの頃の自分ではなく、旅を知り、外を知り、世界を知った後でこの地方を見てみれば、この地方は暖かくて愛おしい場所だと思えるようになった。
 大人になって、郷愁の思いが湧いてきたとでも言うのだろうかな。

 アスナは女王エリーゼへの謁見を済ませると、宮殿内にある一室を借りて速やかに着替えた。送りましょう、という侍従たちには丁寧に断りを入れておく。今日は折角帰ってきたのだから、ペンタシティで遊びたかったのだ。謁見用の衣装からいつもの身軽な姿へと戻った色違いのブラッキーのルーンとエーフィのサーニャが早く行こうと言いながら足元をくるくると回っている。
 活動的なパンツ姿になって、宮殿をまるで観光客ですと言わんばかりに堂々と歩いていく。一応、有名人ではあるので大きなサングラスを付けてあっという間に宮殿を抜けると、いつもつい笑ってしまうのだ。
 ――なんだ、意外とばれないものね。
 そうやってクスクスと笑いながら、宮殿へと続く長い階段をリズム良く三人で降りていく。


 ペンタシティは新しいミタマ地方の首都だ。神子に関わりの深い土地から、首都をずらしたのは少なからず神子やその血統が政治に深く関わらないという意思表示である。この地を長く治めていたアキレイト家に政治の実権を移すと決めたときから、この土地こそが新しい首都にふさわしいと思っていた。三日月型の島であるミタマ地方のちょうど中心に位置するペンタシティ。改革の象徴たる、ヘキサシティが近いこともあって、古いミタマ地方の風と新しいミタマ地方の風が両方入り込んでくる心地よさが、アスナの肌をなでていく。
「今日はどうするんだい」
 アスナがうんと体を伸ばしたところでルーンが話しかけてきた。何をしましょうかね、とアスナはあたりを見回す。すると、一人の少女が目に入った。背筋がしゃんと伸びていて、立ち姿が印象的だった。瞳には強い自信があって、なんだか応援してしまいそうになる。
「素敵ね、」
 気づいたら声をかけていた。
「そのヘアピン、とても素敵ね。そのドレスも。そんなおしゃれなあなたに、少し付き合ってほしいことがあるんだけど……」
「え?」
 女の子は褐色の肌で、白い髪をしていた。ミタマ地方ではあまり見ない色だが、それがまた似合っているのだから素敵だ。アスナはにこりと笑った。女の子は少し照れくさそうに笑って、アスナを見上げた。
「エーディア様の思し召しで出会えたなら、是非協力させてください。それで……」


 たっぷりとクリームの乗ったふかふかのパンケーキを前にしたときはアスナもサミナと名乗ったその少女も一緒に目を輝かせてしまった。
「ふわぁ、新しいお店が入ったのは聞いてたけどすごいわねぇ」
「は、はい! ふかふか……」
 カロス地方で人気のパンケーキにはクリームとアイスがふんだんに乗せられ、周りには色とりどりの果物が飾られていた。
 単純にアスナが付き合ってほしい、という話をしたのはショッピングだ。先程までペンタシティのショッピングモールにあるブティックを見て回ってきたところ。そろそろお昼時ということもあって、ショッピングモール内に新しくできたカフェでおいしいパンケーキが食べられるという話を聞いていたアスナがお礼も兼ねてサミナを引っ張ってきたというところだ。ポケモンたちも専用のポケモンフーズが運ばれてくると嬉しそうに頬張り始めた。
「ん〜、おいしい。ねっ、サミナちゃん、どうかしら」
「おいしいです……!」
 サミナが笑っているのを見て、アスナは嬉しそうに微笑んだ。自分にも同じ年頃の娘がいるからだろう、なんだかとっても微笑ましく見えてしまうのだ。ポッドで運ばれてきた紅茶を自分のカップに入れて、アスナはゆっくりと口を運んだ。
「ルーン、サーニャ、一口食べる?」
 ルーンはぴくりと顔を上げる。サーニャは言葉を聞き終わるよりも先に、膝下にやってきて口を開けている。アスナは一口ずつ切り分けて二人の口に入れてあげる。やんわりと表情が溶けていく二人を見て、アスナも嬉しそうに笑った。
「仲がいいんですね」
 サミナがやり取りを見て、そう言ってくれた。そうね、と言いながらアスナは頭を撫でた。
「ずぅっと一緒なの。生まれた頃から」
「生まれた頃から!?」
 大体ポケモンを持つことが許されるのはどこの地方も十歳からだ。ミタマ地方も最近ではその方針が受け入れられ、十歳以下がポケモンを持つというのはずいぶんと減ってきた。しかし、かつてはそうではなかった。特に神子の家系ともなると生まれたその日にイーブイと一緒にいることになるのは珍しいことじゃない。
「昔のミタマ地方では結構あったのよ。生まれた日に卵が孵ったら、その子の運命なんだって」
「エーディア様の思し召し?」
「そう」
 アスナは笑った。エーディア様の思し召し、というその口調がどことなく慣れてないのが微笑ましい。サミナはそれをごまかすようにぱくりとパンケーキを口に運んだ。
「旅もいっぱいしたわ。そういえば、サミナちゃん、チャームが付いてるけど……ミタマリーグに挑戦するのかしら」
 アスナはサミナのバッグで輝くチャームを見て、首を傾げた。ミタマ地方では他の地方とは違い、バッジではなくチャームを集めてミタマリーグに参加する。八つのチャームを集めたものが、ミタマリーグに参加する権利を得ることができるのだ。
「あ、えっと、間に合うかはわからないんですけど。ジムめぐりはするつもりです!」
「もう、三つもあるのね。えっと……ライザーチャームに、ホークチャーム、ナイトメアチャームね」
 バッグを見せてもらい、一つ一つのチャームを見させてもらう。エーディアの涙と呼ばれる特殊な鉱石を使って作られるこのチャームたちは、ポケモンとトレーナーの絆と、ジムを勝ち上がった知性の象徴と言われている。このきらめく輝きはまさしく、ジムに勝った自信の証なのだ。アスナは緩やかに微笑む。
「じゃあ、ペンタシティのノームジムに参加するのはこれからね」
「はい」
 サミナが力強く頷いた。アスナの足元でまったりとしていたルーンがサミナの元へ向かうと、ふんふんと鼻を立ててサミナの周りをウロウロとした。そして、じっとアスナを見上げてくる。
「わっ、え?」
「ルーンがね、あなたに興味があるって」
 珍しいわ、と言いながらアスナは紅茶を口に運ぶ。そして、ナイフとフォークを持つとパンケーキを切り分けて口に運ぶ。
「サミナちゃんも、カエンジシも、ミノマダムも、ロゼリアもいい顔してるもの」
「そ、そうですか……?」
「ええ、きっとラーディ様のご加護があるのね」
 アスナがそう言って笑うと、サミナはきょとん、として首を傾げた。なので、アスナはとんとん、と自分の頭を指さした。サミナからするとヘアピンがついている位置で、サミナは反射的にヘアピンを触っていた。
「それ、エーディアの爪っていう鉱石よ? 知らなかった?」
 ――エーディアの爪。
 羽根は友愛を示すユーリアに。涙は知性を示すエグニマに。爪は勇気を示すラーディに。というミタマ神話のお話だ。このポケモンたちはそれぞれ指し示す方向へと人々やポケモンたちを導いてくれるという逸話があり、サミナもガリオンと出会った時にこの話をしたのだ。
「それに星はお三方を示す意味もあるわ。彼らはずっと傍にはいないけど、夜に瞬く星のように私達をずぅっと見守ってくださっているの」
 ほら、このお皿も三つの星の意匠がされているわ、と言ってパンケーキの皿を指さした。
「ミタマ地方ではこういうのすごく好かれるの。特に子供生まれたときとか、旅立ちの日に服のどこかに三つの星の刺繍をしておくといいとかね?」
 桃色、青色、黄色の星の刺繍はミタマ地方で好まれる刺繍だ。他にもエーディアの大きな翼の刺繍、月と太陽の刺繍を施された服はミタマ地方でも多く見られる。ミタマ地方にとって、エーディア教の教えはとても大きなもので、旅人と出会って話をしたのならそれは「エーディア様の思し召し」。その旅人に優しくしてあげるのも、ミタマ地方の習わしなのだ。
「神話は学校で、神父様から教えてもらいましたけど……星のことは詳しくありませんでした」
「ふふ、もう、迷信みたいなものだもの。私、こう見えてもうおばさんだから、こういうの詳しいだけなの」
 それにね、好きなのよ、と言ってアスナはハンカチを取り出すとそのハンカチにはきれいに星が刺繍されていた。
「だから、きっとあなたのヘアピンもそういう意味があると思うわ。星はあなたを見守ってくれる、という意味が」
 勇気が出ますように、とアスナが言葉を紡ぐと、目の前のサミナは嬉しそうに頬を染めて、ヘアピンをそっとなぞっていた。ああ、そうか。アスナは気づいたように目を細めた。――コアはこの笑顔のために、その背中を押したのだろう。


 太陽が傾いてくる頃には、聖アレイスティル宮殿の鐘がペンタシティに響き渡っていた。夕時を告げる鐘の音だ。アスナはたっぷりと買い物をして満足していたし、何よりもサミナと話をできたことが楽しかった。
「ありがとう、楽しかったわ」
「いえ、こちらも素敵なお話を聞けましたし……」
 サミナがそう言いかけたとき、アスナは視線を別のところへ向けた。
「旅立つトレーナーに餞別、ということでどうかしら。ポケモンバトルしない?」
 目があったらポケモンバトル。それがポケモントレーナーというものならば、別れ際に餞別としてポケモンバトルするのもありだと思ったのだ。
 街中にあるバトルフィールドに対面するように二人が立つ。アスナはモンスターボールを取り出そうと腰のベルトへ手を伸ばしたが、それよりも早くルーンがフィールドに立ってしまった。本当に珍しいこともあるものだ、とアスナが目を見開いているとルーンが僅かに振り返った。
「わかったわ、それがあなたの意志なのね」
 行きなさい、と言えばルーンは満足げに笑って目の前のサミナへ一吠えした。小さいポケモンだが、その貫禄や大型のポケモンですら黙らせるほどであるルーンはあまり戦闘を好むタイプではない。のんびりと、寝ている方が好きなのだ。
「私はカエンジシで行きます!」
 サミナの後ろから勇ましくできたのはカエンジシだ。
 炎・ノーマルポケモンのカエンジシと悪タイプのブラッキーではタイプ有利・不利は殆ど無い。純粋にポケモンの力と力のぶつかり合いになりそうだ、とアスナは目を細めた。
「カエンジシ、行くよ! 雄叫び!」
 雄叫びで一瞬足がすくみかけるルーンを補佐するようにアスナが声を上げた。
「ひるんではだめよ、ルーン、鈍い!」
 素早さを犠牲にして、攻撃と防御を上げていくのがルーンの戦い方だ。この場合は防御力を重視していると言っても過言ではない。こらえてこらえて、こらえて勝つ。サミナの目に力が宿るのがアスナには見えた。様々な葛藤を乗り越えたものは、強くなれるものだ。――かつての自分がそうであったように。

 最後の竹箆返しが思い切りクリーンヒットすると、小型ポケモンとは思えないほどの威力が出た。もともと竹箆返しは後攻になれば、有利になる技だ。鈍いで素早さを存分に下げていたから、攻撃が後出しになるのは確定していて、威力も当然上がっていた。
 カエンジシが飛ばされて、戦闘不能になったのを確認するとルーンが静かに体勢を直した。
「カエンジシ……お疲れ様」
 サミナがそう言ってカエンジシをモンスターボールへ戻す。ルーンはゆったりとした足取りでサミナに近づくとサミナとカエンジシの健闘をたたえた。お疲れ様、そういわんばかりにサミナの頬に顔を寄せた。
「えっと……」
「お疲れ様、って言ってるみたいね。強かったわ、あなたも、あなたのカエンジシも」
 アスナはそう言ってサミナに手を差し出した。
 その手を取って握り返してくれたサミナに柔らかく微笑むと、沈みかけた夕日がきらりと光ったような気がした。
「たくさんの苦難がこれからもあると思うけれど、大丈夫よ」
 アスナはサングラスを漸く外した。ビビットカラーの瞳が、サミナを柔らかく見つめた。
「あなたにはたくさんの星がついている。これから先、あなたはポケモンたちと乗り越えていく」
 そっと頭を引き寄せるとその額にキスを落とす。
 どうか、エーディアよ、あなたの愛子にあなたの加護があらんことを。

「エーディア様の祝福をあなたに!」

 祝福の鐘が鳴る。
 アスナはじゃあね、と言って手を振りながらサミナから離れようとして、そして足を止めた。
「もしも、チャームが八つ集まったら、また会いましょう!」
「え?」
「私、アスナっていうの!」
 ――アスナ。
 その名前はミタマ地方ではある意味、特別な名前だった。ミタマ地方の英雄。ミタマ地方の改革を行った、エーディアの神子。そして――チャンピオン。
「また、会えるのを、ルーンも楽しみにしてるわ!」
 今度こそ、じゃあね、と言って手を振ったアスナを見送って、サミナは呆然としていた。ロゼリアとミノマダムがなんだか心配そうに見上げていたが――暫くして、サミナは嬉しそうに笑った。


「楽しかったかい?」
 ルーンがどこかスキップしそうになっているアスナに向かって声を掛ける。サーニャはあちこちを飛んでいるバタフリーを追いかけるのに夢中みたいだ。アスナは潮風に吹かれる帽子を押さえながらそうねぇ、と笑った。楽しかった。
「あの子はリーグまで来るかしら」
「来るとも。あの子には力がある」
 ルーンはそう断言して、アスナよりも数歩先に進んだ。ああ、だから彼はサミナに興味を持ったのだろう。彼は力のあるものに対して敏感だから。
「また会えたら、楽しみね、ルーン」
 アスナが微笑みながら言えば、ルーンは何も答えなかったがふっと笑って見せる。

 ――若きものよ。
 前へ進め。

 私たちはいつでも、頂きで君たちを待つ。


 紅葉さんより。アスナさん視点での派生作品を頂きました! 『ミタマ地方のサミナの話』からそのまま続いています。