壁のてっぺんは未だ見えない


 テンマとボタンがメインを飾るプログラムの公演まで、あと一ヶ月を切った。
 現行の公演もしっかりやりながら、来月からの自分たちのパートを、二人とも熱心に練習していた。

 ミネラルウォーターを買いに行くと言ってボタンが外へ出るのと入れ替わって、カミーリアがスタジオに入ってきた。
「ちゃんと練習してるみたいねー」
「カッ、カミーリアさん!」
 テンマは、思わず声が上ずった。思えば、二人きりになるのは初めてではなかったか。
「あの、えっと」
「ユキワラシとのコンビ技、上手くいった? あれ、できるようになったら、コンテストにも応用できるよ」
「そ、そうですよね! でも、まだなんです。どうもタイミングが合わなくて」
 カミーリアは、床に置いてあったいくつかの傘を見た。
「私も、ちょっとやってみていいかしら?」
「えっ……どうぞ」
 そう言われて、カミーリアは早速、一番近いところにあった二つの傘を持つ。
「当たり前だけど、難しいわよね。テンマ君を見て、さわりだけやってみたんだけど」
 そして、滑らかな手つきで、一つのように見えた傘を二つに増やした。もちろん、普段から和妻をしているテンマにはタネもしかけもすぐにわかる。
「じゃーん。どう?」
 いとも簡単にやってのけたカミーリアを見て、テンマは何も言うことができなかった。
「どうしたの、テンマ君?」
「あ、いや、その! こんな短時間でできちゃうなんて、やっぱりカミーリアさんはすごいんだなーって」
「まあ、要は練習。私だって、和妻をポケモンと一緒にしなさいって言われたらできないわ」
「そうですよね、これからも頑張ります!」
 テンマは元気に答えてみたが、内心戸惑っていた。
 自分が数年かけて極めた、手つき、角度。それら全部が、カミーリアには既に備わっていたのだ。
 もちろん、カミーリアも、普段やっているマジックやサーカスの練習は欠かさない。それを和妻に応用しているだけだ。だが、テンマにとっては、それで割り切れることではなかった。
「……あっ、そうだ、私これから次の会場のスタッフさんと話があるんだった。それじゃ、引き続き練習しっかりね、ボタンと一緒に!」
「はい」
 圧倒的な差。眼前の世界の広さ。
 それを、よりによって、はじめて二人きりになった瞬間に見せ付けられるなんて。

「ただいまー。テンマの分も買ってきたよ。……テンマ?」
 帰ってきたボタンを、テンマのかわりにユキワラシが迎えた。
「ユキワラシも飲む?」
「シュン……」
「ありゃ、違うのか?」
 ユキワラシはテンマの方を見た。ボタンも、彼の後姿を見る。
「ひょっとして、泣いてんの?」
「泣いてない!」
 ややにごった声で、テンマはそう返した。
「何かあったの?」
「何も……何も、なかったって!」
 そう、何もなかったのだ。
 はじめからそこにあった現実を認識したというだけで、特別なことは起こっていない。
「……わたし、練習するけど。はい、テンマが好きって言ってた、シロガネ山天然水」
 ボタンはペットボトルを差し出す。テンマはそれをおずおずと受け取った。