+ 1 - 宵闇の歌姫 +


 
セイレーンと光のコンポーザー。
歌姫と作曲家。
セイレーンはコンポーザーを欲して歌い、コンポーザーはセイレーンを欲し旋律を奏でる。
二人はオルゴールを通して出会う……。


 僕は誰もいなくなった教室に戻るなりため息をついた。
 今日も罰掃除をくらった、ピアノ科の落ちこぼれ、それが僕だ。どうせなら、放っておいてくれたらいいのに……先生も優秀な生徒を指導したいだろうし。
 僕は楽譜を鞄に入れた。全てのものが揃っているか確かめる。うん、何も忘れ物は……あ、あれ。
 ない。あのノートがない!
 誰かに盗られたんだろうか。あのノートだけは見られたくはない。そんなものを学校にまで持ってくる僕も僕だと思うが……。
 教室の他の机とロッカーを覗いてみる。あのノートはかなり古くて黄ばんでいるから、すぐにわかるはずだ。
 すぐにわかるはずなのに……どこにも、ない。

 外は凍えるように寒かった。
 居残り罰掃除、これだけならただの、ちょっとアンラッキーな日で終わる。でも今日は何だ。こんな最悪な日があっていいのか?
 時計も、そろそろ八時を告げそうだ。
 さっさと寮に戻ろうと、階段を駆け下りたその時だった。
「ねえ、このノート、あなたのでしょ」
 背後から、甘い女性の声が聞こえた。ノート、という、僕が一番求めているものを呼んだ彼女のほうをとっさに振り返る。
 女性は一番上の段に座って、僕を見下ろしていた。右手には、「作曲ノート」と書かれたノートが……。
「なんで僕のノート持ってるんだよ!」
 僕はすぐに階段を駆け上がった。左手でノートをつかもうとすると彼女の右手はさっと後ろに逃げ、彼女の左手は僕の肩を掴んだ。
 その時、彼女の左手から、寒気が瞬時に走るほどの冷たさを感じた。
 彼女は僕の瞳を見つめる。
 長い薄桃色の髪に、一等星のごとき水色の瞳。肌はシルクのように白くきめ細かい。彼女は……少なくとも僕が見てきた女性の中では、一番美しかった。
「私はルリ。あのね……手伝って欲しいのよ」
「そういうのは、まずノートを返してから言うもんじゃないのか?」
「まぁ、私がノートを盗んだとは限らないじゃない。どこかで偶然無くなって、私が届けに来てるとは考えなかったの?」
 彼女ルリはくすりと笑う。ごもっともだ。
 だがいまいち彼女のことは信用できない。僕は彼女をきっと睨みつけた。
「あなたが曲をつくって、私がそれを歌う。そのために、新しく作曲してほしいのよ。歌詞は私がそれに合わせるわ」
「誰がそんなめんどくさいこと……」 「そこを何とか、ね? 私、つねに曲を聴いておかないと死んでしまうから」
 何だよ。曲を聴いておかないと死んじゃうって何だよ。
「でも僕、作曲なんて」
「あら? もともとは、ピアニストじゃなくて、作曲家になりたかったんじゃ」
 ルリがそこまで言った時、僕は右てのひらで彼女の視線を遮った。
「やめろ……それ以上、言うな」
 寒さと苦しさで、夜空にかざした手が震える。
「僕はもうあきらめたんだ」
「あなたは"光の作曲家"なのよ。必ず大成するわ。さ、聴かせてよ」
「それ以上言うなって言っただろ!」
「だって私だって聴けないと、死ん……じゃう……」
 急にルリの瞳に生気がなくなった。そのまま、彼女の身体は、ぱさっと、地面に倒れた。
 え、今何がおこった? ルリ?
「誰か」
 僕は叫んだ。
「誰か!」
 誰も来ない。それどころか、遠くで僕を見て、笑いながら通り過ぎていく人ばかりだ。
「なんで」
 僕はルリに視線を戻した。ルリを助けられるのは僕だけなのか?
 僕は夢中で鞄をあさった。そこには、いつもひっそりしのびこませている、作曲ノートがあるのだ。
 もうすっかり黄ばんでいるノートをぱらぱらとめくっていく。
「僕はトニーだよ。トニー」
 僕はそう名乗ってから、息を吸った。
 らー、らーら、らー、らーらー、らー、らー。
 曲にならない曲が、白い息となって狭い空間に響いた。

 ルリはそっと目を開く。水色の瞳が、雲ひとつない夜空を映す。
「……すてき」
 か細い声だった。僕の歌声なんかより、ずっとずっと美しい声色。
「あなたの歌、すてき」

 しばらく歌い続けると、ルリはすっかり元気になった。
「やっぱりあなた、“光の作曲家”だわ。もう一度お願い。私のために、曲を作ってくれない? 理由は今すぐは言えない。でも」
「……わかったよ。ただし、一曲だけ」
「やった! 本当によかった……」
 そう言ってルリは、大時計に視線を移した。すぐに時計は八時を告げ、からくりが動き始める。
「セイレーンと光のコンポーザー、二人はオルゴールを通して出会う……素敵なおはなしだと思わない?」
 ルリは、この学園に伝わるおとぎ話の冒頭を唱えた。確かに、今の僕らの状況に似ているかもしれない。
 僕は黙って、頷いた。

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