💙マイナーすぎる近鉄史【2】三十三銀行のルーツ、四日市銀行を更正させてました

三重県に拠点を構える三重銀行、第三銀行の両行が5月1日付で合併し、三十三銀行が発足しました。

ルーツのひとつ、三重銀行ですが、実は近鉄直系の東進に結構深い爪痕を残しています。当時の名は四日市銀行
今回は鉄道擬人化漫画での言及部分と、参考史料を挙げてこの部分を語ってみたいと思います。

普段は鉄道擬人化漫画を描いていますが、たまにこうして真面目(?)な記事も上げています。マイナーすぎる近鉄史【1】はこちら。

名古屋線の前身・伊勢鉄道→伊勢電気鉄道の躍進

地元の小私鉄であった伊勢鉄道は、1925年、社長に四日市の名士・熊澤一衞氏を迎え伊勢電気鉄道と改称し、一転、積極策で事業を発展させていきます。

熊澤氏はそれ以前にも四日市製紙や静岡電鉄で事業を成功させており、伊勢電の社長就任と四日市銀行の頭取就任はほぼ同時。

熊澤氏の頭取時代のエピソードとして、 山雨楼主人『交友七十年』112-113pには、
熊澤氏が専務取締役を務めていた静岡電鉄のルート決定の際、神社の移築が必要として熊沢氏とともに交渉にあたり、その後交友関係を続けていた手塚六郎治氏が、七間町の立花館という活動小屋(映画館)が7、8千円で買えるため、その資金を熊澤氏の四日市銀行で借りたいと思い立った際、熊澤氏は「よかろう、手形を書け」と二ツ返事で一万円貸してくれ、引続き氏の後援で清水にも立花館を建設した、という話が紹介されています。

その後、政権交代で前政権の不正を暴いてやろうぜというよくある流れで、私鉄に関する疑獄事件が日々紙面を賑わすことになります。

伊勢電は大軌・参急系(現在の近鉄直系)や京阪系とも争いつつ桑名-名古屋間の鉄道敷設免許をもぎ取っていましたが、その際熊澤氏が前・鉄道大臣に賄賂を渡していたのでクロ
その時の事情として、『交友七十年』120pには

昭和四年に起った鉄道大臣小川平吉の鉄道疑獄事件と、天方賞勲局総裁にまつわる売勲事件に連座した熊澤は、十数年間公判を続けた。事件そのものは結局は竜頭蛇尾に終ったが、その間彼が頭取である四日市銀行が取付に逢い、人一倍責任感の強い彼は、数千万円に上る全財産を銀行に提供し、丸裸となって頭取の地位から退き、同時に他の事業会社からも手を引いた

とありますが、もう少し整理していこうと思います。

一蓮托生の伊勢電&四銀、その衰退と更正

以下、主に武知京三『近代日本と地域交通 伊勢電と大軌系(近鉄)資本の動向』を参考に経過をまとめます。
同書は漫画を描く際も大いに参考にしました。名鉄や近鉄(大阪側込みで)が好きな方にもおすすめしたい書籍です。

1930.1.25 熊澤氏が頭取を辞任(※伊勢電社長は暫く継続)し、三輪綏氏(伊勢電取締役)が頭取に就任
  その後熊澤氏の信用失墜と財界布教で四銀の払い戻しが激増

1931後半期 伊勢電が無配に。

1932.2.24 「前年来陥った経営不振の責任を取る形で」熊澤氏が伊勢電社長を辞任
 ※鉤括弧は上野結城「伊勢電気鉄道史」(『鉄道史料』連載)より引用

  .3 四日市銀行休業
 ※この頃までに三輪頭取は熊沢氏所有の工芸品および不動産を担保として提供させ、100万円ほどを回収し、熊澤氏辞任の頃より四銀→熊澤氏関係の貸付金総額は110万円以上減っていたが、それでも673万円ほど残っていた
  ※担保の大部分を占めてた伊勢電株はピークの1/5まで下落していた

1934.11.15 四日市銀行 上申
 簡単に言えば「伊勢電に貸したお金は極力回収するつもりだったけど伊勢電は熊澤事件以来ずっと経営不振で詰んでるよ。少なくとも乗客売上金は回収したいから日々収納とかやってたけど同社の衰退イコールうちの衰退だから1932年2月に休業してからは折衝はずーっとやってるけどなんも具体的なことはできてないよ」みたいな感じ。前頭取の名前をそのまま事件名にしちゃって大丈夫なん。

あと詳しくないんですが日々収納ってこういうやつですか。(漫画では税務署員だけど)

その後も暫くゴタゴタは続きますが……

1935.7 伊勢電監査役に四日市銀行専務取締役の小池一氏が就任
 ※氏はその後三重交通に統合される1944年まで三重鉄道の社長をつとめる

1936.1 関西急行電鉄株式会社創立
 (関急電、ざっくり書くと桑名-名古屋間を開業させるために参急と伊勢電が出資して作った会社)

  .9 参急・伊勢電の合併

1938.6.26 関西急行電鉄線(桑名-名古屋間)開業
 →大成功し、旧伊勢電株が値上がり

世論に後押しされて、大蔵省も四日市銀行再開を容認する方針に……というわけで、条件。
①大手銀行に後援してもらう。
 
→大軌常務の藤井正氏が住友系の人で、住友銀行を後援とすることに成功
②地元有力者に擁護してもらう。
 →地元有力者で「四日市銀行再開後援団」結成。
  ちょっと鉄分の話をすると、志摩電気鉄道と三岐鉄道の立ち上げに関わった伊藤伝七氏、
  関西鉄道や三重軌道の立ち上げに関わった四日市九鬼家の九鬼紋七氏も加わってました。

二つが叶って、残るは四日市銀行の持っていた伊勢電・三重鉄道株を大軌・参急が買いとり、その代金を四日市銀行更正の資金とする……のみとなったときに、名鉄にとられそうになったり参急監査役の五島慶太氏が高額買い取りに反対したりとまたゴタゴタがあったようです。

1939.12 四日市銀行、蘇生
このとき「三重銀行」と行名を改め、九鬼紋七氏を頭取とし、7年9ヶ月ぶりに銀行業務を再開したのでした。
結局は大軌・参急による高額買い取りが実現したのですが、ここが文献ごとに差異があって面白かったので紹介します。

文献ごとに受けるイメージが違いすぎる四日市銀行再建エピソード

四日市銀行再開の際の動きは、当時の大軌社長の伝記『種田虎雄伝』179pには以下のように簡潔に記されています。

ながく休業閉鎖の状態にあった四日市銀行が、この種の休業銀行に関する前例をやぶって営業を再開した。
これは、種田虎雄が、前例をたてにとる大蔵省を相手どって展開した説得運動の成果であり、この成功によって種田は、三重県の財政建直しにも一役つとめたものといえる

拙作の漫画にも解説パートをつけていますが、基本的に上記をベースとしています。

……しかし、その後参照した、参急専務の井内彦四郎氏を主人公とする『東への鉄路 近鉄創世記』では

井内は、(略)四日市銀行の更正について協力しないわけにはいかないと力説した。(略)
「それとこれとは別だ。商売に義理も人情もへったくれもない!」
 と、五島はなおも声を荒らげる。二人のやり取りは次第に喧嘩腰になって、(略)一時間ほども続いた。
 そのあいだ中、社長の種田も、大軌常務で井内とともに使者になった藤井も、一言も意見を述べなかった。
(こんな時に、社長が応援してくれたら……)

……うーむ。鉄道史を漫画にすべく日々文献を漁る者からすると、視点が違えば残るものも違うとはいえここまでかと。
『東への鉄路』では、「井内氏の独断」で伊勢電・三重鉄道両株式を四日市銀行から高額買い取りし、その結果四日市銀行の更正に繋がった――ということになっています。
ちなみにこの株はその後高騰し、大軌・参急を大いに潤したそうな。

ついでに白状しますが、私が『東への鉄路』を読んだのは名阪シリーズを完結させた後です。
なぜここまで有力な文献をあたらなかったのかというと、『東への鉄路』はヒアリングや文献、新聞記事の参照など、徹底的な取材がなされているとはいえ小説という形式をとっており、同じ題材で物語を描く者として影響を受けすぎてはならないと思ったからです。
こっちは漫画だし、令和の時代に描いてるし、『東への鉄路』とは別アプローチで描けたはず♪ などと思っておりましたが、タテ二段組み・300ページという長さが全く気にならないほどの面白さで一気読みし、正直完敗しました。『東への鉄路』面白いです。
(あっでも同書は井内氏へのヒアリングが土台となっているので、井内氏退任後の1940年以後は拙作名阪シリーズもエピソードの掘り下げ頑張ってるんじゃないかなと思っています)(などと抜かす)
五島氏が徹底してヒールなので東急の歴史に興味がある方にもおすすめです。図書館検索かけてみたら首都圏にも蔵書されてるとこは多いです。

『結ばれる大都市、交わらないふたり』もそろそろ古いので、描き直す際には『東への鉄路』を参考に、養老や東横のエピソードを足すかもしれません。

今回発足した三十三銀行、名前がクリエイティブで好きです。
これを機に三重がますます発展しますように! 私奈良県民だけど!

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