タマゴとひよっこ


 次々発見されるバトルの新要素に、ヒヨは内心辟易していた。
 こちとら公式戦の審判になるために日々勉強中だというのに、フェアリータイプだの、メガシンカだの、次から次へと出てしまうとたまらない。昨日まで予備校で学んでいたことが今日はもう古い、というのもよくあることだ。
 だから筆記の模擬試験で判定が良くなくとも、それは自分のせいではないと言い聞かせていた。

 カイナシティの経済は、今日もそれなりに健全であった。
 なにぶん貨物の多い港湾都市であるから、高級住宅地化が進むキンセツから人があぶれて、街には日雇い労働者も多い。しかし、それゆえに治安が良くない地域もあるということでもある。
「お嬢さんトレーナー? じゃあこの詰め合わせ買わない、お安くしとくよー」
 こういう、悪質な物売りとか!
「結構です」
 自身のせっかちさも手伝って、こういう連中を撒くのは得意だ。
「そう言わずに話だけでも」
「結構です!」
 一度こういうのに捕まってしまうと、街全体に嫌悪感が湧く。ヒヨは早足で、市域から外れた砂浜に向かった。

 柔らかい砂を踏みしめ、この場所は昔から変わらない、とヒヨは安心を覚えた。
 ポケモンと戯れる子供たち、バトルを楽しむトレーナーたち、釣り人、それからカップルも。はじめて訪れた時と同じ、よく知った光景だ。
 ただ無心に眺めていると、一人の少女に目が留まった。
 いつもならばよく知る光景のひとつとして注目することもない、そんじょそこらの女の子だ。
 彼女の持っていた紙束が風にさらわれることがなければ。
「あーっ!」
 少女は悲鳴をあげた。彼女のそばにいた母らしき女性が紙を取ろうと走り出すが、砂に足をとられうまく走れていない。
 風にのりぱたぱたと音を立てる紙が、あの小さな女の子にとってどんな意味を持つかは知らない。それでも、できることがあると思い、ヒヨは二つのモンスターボールを手に取った。
「クロバット、テッカニン、お願い!」
 開いたボールから光が消える頃には、二匹ともそこにはいなかった。そのぐらい素早い、ヒヨ自慢のポケモンたちだ。
 クロバットが遠くに飛んでいった紙を、テッカニンが風に乗れずよろよろと落ちゆく紙を、それぞれ水や砂に浸かる前に取る。
「すごーい!」
 背後から少女の歓声が聞こえてきた。しかしそれも、すぐ悲鳴に変わる。
「……届かない!」
 クロバットは、紙の位置を瞬時に察知し、一筆書きで回収に向かっていた。しかし、その中で、どうしても間に合わない紙が一枚あったのだ。
 ヒヨが少女のほうを見やると、泣きそうな顔をしていた。一枚ぐらい諦めたら、と思う気持ちをぐっと抑える。なにせ、小さな子供はこだわりが強いのだ。
 しかしそう思ったところで、クロバットも、テッカニンも、なす術はない。あの紙は回収できない、そう思ったときだった。
 浅瀬から水が吹き上がったのだ。
 水に押し上げられた紙に、クロバットはすぐさま反応した。濡れてしまったが、潮水にどっぷり浸かるよりはましだ。
「なっちゃん!」
 少女は喜び駆けだした。なっちゃん、と呼ばれたのは、浅瀬のホエルコだった。ホエルコは少女を見て、にいと笑う。
「なっちゃん?」
「ナツよ。夫のホエルコなんだけど、放し飼いにしてるのよ」
 そう言ったのは母らしき女性だ。クロバットとテッカニンが戻ってきて、ヒヨに紙束を渡す。
「ここは潮風もきついから、お気をつけて」
「ありがとうございます、本当に……! ほら、ソラもおねえちゃんにありがとうって言いなさい」
 女性が言うと、少女ソラはこちらへと戻ってきた。少し傷んだがほぼそのままの紙束を見て、ソラはホエルコに似た笑みを浮かべる。
「ありがと」
「どういたしまして。これからも海辺で遊ぶの?」
「海すきー」
「カイナの近くで遊び場といえばここだと思って」
「そっか。それじゃ」
 ヒヨは筆箱からホッチキスを取り出し、角をそろえた紙の左側二箇所をとめた。
「はい。これで大丈夫」
「わー、すごい!」
「そんなわざわざ……ありがとう、えっと、お名前は」
「ヒヨです。ところでこの紙、とても懐かしい感じがするんですが……ちょっと見てもいいですか?」
「どうぞ」
 言われて、ヒヨはまず表紙を見た。それは便箋で、少ない横線の下でキャモメがゆったり飛んでいる。
 ぱら、ぱらとページをめくると、便箋のイラストはジグザグマだったり、ナマケロだったり、それこそホエルコだったり。
 全て見たことのある柄だ。そう、数年前にここホウエンを冒険した世代ならば。
「これ、どこで手に入れたんですか?」
「カイナの北に住んでる……カラクリ大王って知ってるかしら? 彼が、もう使わないから子供にどうだ、って」
 そうか、とヒヨは思う。まだまだ通信技術が発達していなかった頃は、メールをポケモンに持たせて遠い人とやりとりをしたものだった。しかし、それも今は昔。
 ヒヨにとっての思い出の品を、まだ三歳ぐらいであろう小さな子供が手に取って喜ぶ。
「……大切にしな、ね」
 言って、ヒヨは少し名残惜しそうにソラに渡した。ソラはわぁ、と声をあげて、何度も何度も各ページのイラストを見返す。
「あなたはずっとホウエンに?」
「はい。トレーナーですけど、今は公式戦の審判目指して勉強中です」
「まあ、すごいのね! じゃあ、字を書くのも上手?」
「えっ、上手というか……まあ普通ですけど」
 女性は、一度ソラのほうを見て、言った。
「私も夫も外国の出身だから、この子にちゃんと字を教えられるか心配で……ヒヨちゃん。ソラの字の先生になってくれない?」
「字の先生、ですか」
「ちゃんとお礼はするわ」
 ヒヨがソラを見ると、ソラもヒヨを見上げる。後輩にバトルを教えたことこそあれ、こんな小さな女の子に何かを教えたことはない。
「本当に私で良いのでしょうか……」
 予備校生活は金欠との戦いだ。少しでも収入があればヒヨにもありがたいし、請けない話はない。ただ、両親ともに外国人ともなると、付き合いも上手くいくかどうか。
「さっきのあなたを見てね。優しくて強いあなたになら、お願いできるかと思って」
「勉強の合間でもよろしいですか?」
「もちろん、あなたの予定を優先するわ」
「では……」
 お引き受けします、とヒヨは言った。
「ありがとう。私はウィエ。ソラをよろしくね。ほらソラ。ヒヨちゃんが先生になってくれるって」
 そう言って、ウィエはしゃがんでソラと目線を合わせる。ヒヨもしゃがむと、生徒となったソラの第一声といえば。
「ひよっこ!」
 もう、あだ名をつけてしまったらしい。子供の言うこととはいえ、ヒヨは一瞬カチンときた。
「だーれがひよっこじゃー!」
「ひよっこ!」
「じゃああなたはタマゴね、タマゴ!」
 二人のやりとりを見て、ウィエは穏やかに微笑んだ。


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