白いドレス 黒いドレス


 ソラは、覚えたひらがなを五十音順に書くのを一旦やめて、ひよっこはポケモンマスターになりたいの、と訊いた。ごつごつした壁には、「あ」から「ほ」までのひらがなが水で書かれている。
 あの後、ヒヨもカオリに簡単な秘密基地を作ってもらって、予備校のない日はそこにいることが増えた。ソラの家から距離はそこそこあるが、途中で叢を通らなくても行けるため、たまにソラも遊びに来るのだ。
「ううん。私がなりたいのは審判」
「しんぱん?」
「そう。ポケモンマスターになりたい皆がズルしてないか見る人だよ」
「へぇ、えらいんだね」
 ソラは、ヒヨとクチートを見ながら言った。
「ソラちゃんは何になりたいの。ケーキ屋さんとか?」
「うーん。ソラ、およめさんがいい」
 お嫁さん。そういえば、子供はそういう返事をする、とヒヨは経験から思い出した。きれいなウエディングドレスを描いたこともあるし、今でも花嫁さんは憧れの存在だ。
(私もいつか……ね)
「ソラなら白いドレスはぴったり似合うね。お母さんはどんなドレスだったの?」
「……聞いたことない」
 おや、とヒヨは思った。ヒヨの家では、両親の部屋に結婚式の頃の写真が飾ってあるから、ヒヨは物心ついた頃には母のドレス姿を見て知っていたのだ。
「おうち帰ったら訊いてみるね」
 ばいばい、と手を振ると、ヒヨとクチートも返した。

 ソラが勢いよくドアを開けると、そこには彼女の母親、ウィエがいた。
「ただいま!」
「おかえりなさい」
 カクタは今日もカイナシティで仕事だ。日雇い労働は収入が安定しないが、それでも家族のために働いている。
 深呼吸して新築のにおいを感じてから、ソラは訊いた。
「ねえねえ、ママのお嫁さんの写真、見せて!」
「お嫁さん?」
「うん、ウエディングドレス!」
 ウィエは絶句した。今まで話していなかったし、もうしばらくは黙っているつもりでいた。
「あ、あのね……写真は、なくて」
「なんでないの? パパとママ、結婚したんだよね」
 パパとママ、結婚したんだよね。
 ウィエにとって、その言葉は心に鉛を投げるかのように響いた。
「……よく聞いて。パパとママはね、結婚していないの」

 ○

 ソラは、なんで、とか、おかしいよ、とか、何度もウィエに訊き返してきたが、それでもまだ三歳の子供だ。眠気には勝てず、カクタが帰ってくるまでに寝てしまった。
 今日は長引いたけどそのぶん稼げたぞ、と言ってカクタが帰宅したのは夜の八時だった。すっかり気に入ってしまった風呂に入ろうとする前に、ウィエから切り出す。
「ばれちゃったわ、ソラに」
 結婚していないこと。
 そう続いた言葉に、カクタはウィエを見て呆然とするしかなかった。
「……なんで」
「そうよね、子供なんだもの、ウエディングドレスには憧れる。迂闊だったわ」
「子供だから、って」
 カクタはウィエの腕を掴んだ。いつも笑っている赤茶色の瞳は、薄明りの中で不安に揺れている。
「ウィエは、……着たくないのか」
「……」
「俺は……ドレスに包まれたウィエを見たい。結婚したい」
 それは、カクタが文化の違いを気にして言い出せなかったことであった。カクタの生まれたサクハ地方では、どの部族も移民も、生涯添い遂げると決めた二人は、式を挙げ、婚姻関係を結ぶことが定例となっている。それは今、ともに住んでいるホウエン地方でも同じことだ。
 対してウィエが生まれた地域では、婚姻関係を結ぶ世帯は少なく、事実婚状態のまま家庭を持つことが多い。
「ウィエ」
「ごめんなさい」
 言って、ウィエは有無を言わさぬ青緑色の瞳でカクタを見下ろし、腕を振り払った。
 右手のひらを見て立ち尽くすカクタを見て、ウィエは突然、画面が暗転したような錯覚を覚えた。違う、そうじゃない。私はあなたを傷つけたいわけじゃない!
「ごめんなさい……」
 力ない声で、もう一度謝罪の言葉を口にするしかなかった。

 ○

 まあ落ち着こう、と言ってカクタが宥め、風呂からあがった時には、ウィエはすでに眠っていた。
 それが昨日の話で、今日は久しぶりの休日であったが、カクタは、家族三人で過ごすより、ソラを連れて散歩することを選んだ。
 妻が落ち込んでいるとか、機嫌が悪いとか、そういう時に夫はどうするのが一番いいのか、カクタはウィエの知り合い、所謂ママ友に聞いて知っていたのだ。すなわち、一人にさせること。自分も子供のことが大好きで構っていることを態度で示し、子育てに忙しい妻に休息を与えること。
 本当にそれで良いのか、とカクタは半信半疑であったが、家族三人でいられる空気でもない。それに、ソラは昨晩のやりとりを知らないから、カクタには普通の態度でいた。
「あ、見て、あの人」
 カイナ港を見て、ソラが指さした。そこには、黒いドレスに身を包んだ少女がいた。ドレス自体に色はなくとも、彼女の紅樺色の髪が、ドレスとカイナの空にマッチしており、ミステリアスな雰囲気を醸し出していた。
「すごーい、お姫様みたい!」
「あの色合わせ、何かのポケモンに似てるな。えーと、ソロアー……って、おおい、ソラ!」
 カクタが呼ぶのもきかず、ソラは彼女のもとに駆けていった。確かに彼女の服装はあまり見かけないものであったが、ドレスに惹かれるのは昨日のことを引きずっているということなのか、とカクタは訝しむが、今は平静を装ってソラを追うしかなかった。
「お、お姫様?」
「うん!」
 ソラは彼女を見上げて言った。すらっとした体型の少女だった。ヒールを履いているとはいえ、もとの身長も高めだ。ウィエも身長が高いが、彼女以上かもしれない。
「そ、そっか……ふふ」
 彼女は照れたような笑みを見せた。少しだけ口角をあげたその笑みが、品の良さを醸し出している。
「お姫様はどこからきたの?」
「私は……ここよりずっと東から」
「えーっ、じゃあ、海流に乗ってきたってこと?」
 ソラが言うと、彼女はまた微笑む。
「こらこらソラ、あんまり困らせちゃだめだ」
 カクタが追い付いて言った。濃い肌が似ているから、少女にも二人が父娘関係であるとわかった。
「大丈夫ですわ、明るくて可愛らしいお嬢さんですもの。将来が楽しみね」
 急に自分の子供を褒められ、カクタは照れ笑いした。ソラは、やったー、お姫様に褒められた、とジャンプして喜ぶ。何度かぴょんぴょん跳ねたあと、何かにはじかれたように気を付けの姿勢をし、彼女にまた話しかけた。
「そうだ、しょうらい! お姫様は、将来何になりたいの?」
「そうねえ……小さなお嬢さん、ポケモンは好き?」
「うん、好きだよ。ホエルコとか、ハンテールとか! あとパパも、お姫様がなんかのポケモンに似てるって言ってたよ、えーと」
「あー、すいません、ソロアークに似ていると思って」
「……それひょっとして「ゾロアーク」じゃないですか?」
「そうだそうだ、ゾロアークだ! こっちの地方の発音は難しいな」
 カクタは苦笑する。そういうイメージをも持たせるのか、と少女は思った。
「ポケモンが好きなら、話しやすいわね。私、ポケモンバトルが好きで、ホウエンに来たのもそのためなの」
「へー! じゃあ、ポケモンマスター? 審判?」
「……審判って?」
 少女が首を傾げた。ソラは得意になって言う。
「ひよっこ……ヒヨっていう、お姉ちゃんがいてね。ヒヨは審判になりたいんだって! 今はクチートとか、フェアリーとか、メガ……メガなんとかって言ってて」
 少女は一瞬、紫色の目を細めた。それを見て、カクタがすかさず補足する。
「うちで家庭教師やってもらってて。メガシンカだねメガシンカ」
「……そう、ですか」
「ひよっこ、すっごく強いんだよ。それにいっぱい助けてもらった!」
「そう。会ってみたいわね、バトルが強いなら」
 言って、彼女はまた妖艶な笑みを浮かべた。


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