君にはわからない


 二人の思いを込めた名前なの、と言われても、五歳児のソラにはいまいちぴんと来なかった。
 ソラには、カロス地方の空はホウエンよりも色合いが鈍いように感じられる。しかし、その空を刺すような朱色の楼閣、シャラシティのマスタータワーのことはとても気に入った。
「すごかったー!」
 砂浜にぺたぺた足跡をつけながら、ソラは市街地方面へと駆け戻っていった。
「ソラったら」
「やんちゃ盛りだからなぁ」
 母親のウィエ、父親のカクタも、後ろから娘を見守る。三人家族で海外旅行なんてはじめてであるから、ソラは飛行機に乗った時からずっと目を輝かせている。
 シャラ市街に戻る前に、マスタータワーの見える丘で休憩だ。売店で買っておいたお弁当をウィエが並べる。
「メリープも食べよう」
 ソラが最近捕まえた……というか、手なずけてしまったメリープを外に出す。メリープは嬉しそうに、めえ、と鳴いた。
 いただきまーす、と言い終るや否や、ものすごい噴射音がして、あたりを霧が襲った。
「な、何!?」
 ホウエンではまず出くわさない現象に、カクタですらも取り乱す。
「ポケモンか……?」
 二人の親は、視覚が効かない中で必死に娘の手を探そうとする。
「んっ……」
 湿気を綿に多く含んだからか、我慢ができないといった声がメリープから漏れる。
「んめぇーっ!」
「ぎゃーっ!」

 霧の中、本格的に両親とはぐれてしまったソラとメリープが歩く。
「おかあさーん、おとうさーん」
 返事はない。霧の途切れた場所も見当たらない。
「メリープ、どうしよう」
「んめぇ」
 メリープがすまなそうに言った。表情は見えずとも、ニュアンスは伝わる。とにかく歩こう、とソラはメリープを励ました。
 そしてまた一歩踏み出したその時。ずる、とソラは足を滑らせた。
「えっ……」
 視界はほぼ白色でありながらも、ソラには世界が反転して見えた。そこは崖だったのだ。
「うぎゃあーっ!」
 赤子のように、ソラは泣く。真っ逆さまに落ちる先は底のない海だろうか。それとも鋭い枝を持つ木の真上だろうか。
 いずれにせよ絶望的で、ソラはもう諦めつつあった。
 しかし、だ。
「おい大丈夫か。……って、子供!?」
 ソラが声のするほうを見ると、霧の中ながらも、人の姿が見て取れた。うねる亜麻色の髪に、まるで海を閉じ込めたような青緑色の瞳。
「メリープは!?」
 ソラは思わず飛び起きて叫ぶが、その人はなにも返事をしない。
 そうだ、言葉が通じないんだ。
 ソラは悟った。でも、メリープを放っていくわけにはいかない。そこで、降ってきた崖の先を指差した。
「メリープ、いるー?」
 ソラの声に、メリープは電気をまとった綿をふくらませて返事した。
「あの光……君のポケモンか!」
 ぐりん、とソラは何者かに旋回させられた。そこで気が付いたことだが、ソラは何かしらの飛べるポケモンに乗っていたのだ。
(あなたが助けてくれたの)
「メリープか。ほら、おいで。君の友達は助けた」
 サルビオが言うと、メリープはその飛ぶポケモンの背中にひょいと移った。
 メリープには、この人の言うことがわかるらしい。
 それがわかったソラは、メリープと熱いハグを交わしてから、飛ぶポケモンに話しかけてみた。
「飛ぶポケモンさん、ありがとう」
 そのポケモンは、ぶるむ、と返事をした。
「アリガト、か。それぐらいならわかる。君はニホンの子か」
「ニホン……うん。ニホン!」
 ソラの笑顔にうんうんと頷きながら、彼はポケモンに指示をする。
「プテラ、とりあえず晴れたところに」

 ○

 スクープ写真は無理だったか、しかしあんな霧を一瞬で出せるようなヤツをどうやってフィルムに収めるんだ、と、その人――サルビオが悶々するなかで、ソラとメリープは不安に苛まれていた。
「それに、君たちのこともある。ニホンからここまで、君たちだけで来たわけじゃないだろう。お父さんとお母さん……いや、パパとママンって言ったほうが通じるのかな」
「パパ、ママ……ううっ……」
 ソラは涙を潤ませる。そのいたたまれない姿を見て、やはりか、とサルビオは思う。
 単純に両親を探すだけなら、行方不明の五歳児としてメディアに突き出すのも良いだろう。だが、ボルケニオンの全容を掴めぬままに情報とともに流してしまうと、戯れにボルケニオンを探し出す人が現れ、不幸が連続してしまうかもしれない。有名人を散々どん底に貶めておいて今更何を、と思われるかもしれないが、必要でない犠牲を生んではならない。
「よし。しばらく、俺が面倒を見る」
 ソラは顔を上げた。不器用なサルビオのかわりに、プテラがソラとメリープの頭をぽんぽん撫でる。
「ファミーユ。ファミリーって言ったらわかる? 俺は君のパパとママンを探す。なに、あの霧の謎を追ってるんだから、たやすいことさ」
 その言葉は、ほんとうのところ、ソラには半分も通じていない。しかし、彼の優しい語調とプテラの温かな手に、ソラはすっかり絆されてしまう。
「……涙乾いた?」
 サルビオが近づくと、ソラはまた涙を流す。しかし、号泣するというわけでもなく、歯を食いしばってサルビオを見上げた。
「名前ぐらいは知ってたほうがいいよな。ニホン語は全然わからないんだけど……ローマ字、わかるかな。俺はサルビオっていうんだけど」
 そう言って、サルビオは砂に指で字を書く。

 Sarvio

 それを指差して、そのまま自分の胸を指す。ソラはぱっと目を輝かせた。
「さるびおー!」
「そうそう。ほら、君も書いてみて。自分の名前」
 言われて、ソラは小さくまるまるした指で自分の名を示した。

 ZORA

「ゾラ?」
 サルビオから漏れた言葉が自分の名前とは微妙に違って、ソラははてなと首を傾げた。
「ソラだよぉ」
「わかってる。よろしくな、ゾラ」
 しかしサルビオにはソラの言葉もゾラと聞き取ったらしく、何も知らぬまま右手を差し出した。ソラには少々面白くない展開だったが、差し伸べられた右手には、少し砂のついた手で応えるしかなかった。


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