瘴気の衰勢


 サルビオから事のあらましを聞いたテルロはハルンのいる場所へ急いでいた。
 探しているのではない。消えたハルンがどこへ向かったのか、テルロはわかっていたのだ。なぜこんなに自分でも確信が持てるのかわかっていなかったが、強く信じていたのだ。
 ハルンはオペラ座の大ホールで「待っている」と。
 ゾラを抱きかかえながらも、狭い道もなんなく進む。サルビオに言われたことを守り、ゾラには傷ひとつつけていない。バレエで培った進み方だ。
 客席側の重厚な扉を開けたとき、舞台にはただひとり、グランジュテを得意とするバレエ団のシュジェ、ハルンがいた。
 ハルンは踊っていたが、しかし男役のパートナーはいない。それに踊りも変だ。それはまるで。
 けもののような狂気。
「ハルンさん」
 ハルンには聞こえないように口にしたつもりだったが、ハルンは気づき、テルロのほうを見やる。
 そして念を込め、空気砲でテルロを襲った。
「わっ! ……っつう……」
 鎖骨あたりに衝撃を感じ、その場にうずくまる。それでもテルロは、客席の間からハルンを覗き見た。サルビオの言っていた、フーディンの念波の影響は感じられない、と直感する。バトルの才能のないテルロであったが、フーディンには一度会っているし、何よりハルンのことに関してはサルビオよりも自分のほうがわかっている。
「アーンノーン」
「誰だ!?」
 テルロの背後に回り込んでいたのは、アルファベットのBを象ったアンノーンだった。アンノーンはその合図で、ハルンの念を跳ね返し、空間を作った。
 その空間はテルロとゾラを入れて持ち上がる。客席の上を移動し、舞台の下手で降ろされた。上手にはハルンがいる。
「サナー!」
 ハルンは畳み掛けるような念力でテルロを襲う。しかし、テルロはゾラを抱えて全く抵抗しなかった。テルロにはわかっていた。
 これはハルンの意志だ。フーディンによる支配であればテルロとてポケモンを出して対抗したのかもしれない。しかし、ハルンは野性と理性の狭間に心をとられ苦しんでいる。
 それを裏付けるように、テルロの意識下に様々な感情が流れ込む。

『体力と素早さがあって攻撃力が低い。それに体長も高め……最高だ、理想のラルトスだ』
 知らない男の声がした。テルロは気がつく。これはハルンの記憶だ。
『きっとミアレバレエ団に名だたるプルミエ・ダンスールに育て上げてみせよう。名前は……そうだな、ハルン。中世の偉大なる王の名。それでいいかね、マスター』
『ハルン、な。似合っている。してお代は……』
 それはポケモンブリーダーとパトロンの取引だった。ブリーダーが、バレエダンサー向きの個体を厳選し、パトロンが買ってバレエの教育をする。ここまではありふれた展開で、プロのポケモン団員にもそういうルーツを持つ先輩がいるという話はテルロも聞いていた。
『素晴らしいピルエットだ』
『うっとりしちゃう』
 ハルンはとにかく褒められ称賛された。もちろん楽しいだけではなかったが、パトロンや他の人間たちが優しく接してくれたために、どんどん上を目指していけたし、才能があって努力もする、間違いなくエトワールとなれる人材であった。
 しかし、それ故かもしれない。皮肉にも、比較的自由に育てられたハルンは、意志を強く持ってしまった。サーナイトに進化して、女役をやっていきたい、という意志を。
 そんなある日、ハルンは、より良いタイミングでエルレイドに進化させるために、十分なレベルがありながらサーナイトへの進化を抑えられていると知った。そこで、ハルンはこっそり脱走し、野生のポケモンを一匹倒した。
 ドレスのように広がるパーツと、美しく筋肉のついた長い脚。それを見て、理想だ、と思った。この姿で踊るために、自分はバレエを続けてきたのだと確信した。
 しかしそれはパトロンには到底受け入れられるものではなかった。オスのサーナイトが女役など、制約がつきすぎる。ハルンを育てた自分とて、世間になんと言われ指を差されるのかわからない。
『最悪だ、めちゃくちゃだ!』
『サナ……』
『そのような高い声は聞きたくない。近づくな、出ていけ』
 真っ赤な夕陽が沈みゆく刻、ハルンは育て親のもとを追い出された。行く場所など、バレエ学校しかなかった。
 当時すでにミアレバレエ学校の生徒だったハルンは、色々と噂も囁かれたし、女子クラスへと編入となったために、靴を隠されたりレオタードをびしょ濡れにされたりといった虐めも受けた。パトロンを失い、野生ポケモン同然となって、さらに同輩に受け入れられなくなっても、それでもハルンは夢を諦めなかった。
 自分の意志でサーナイトになったのだ、夢を、思いを貫かなくてどうする!
 その思いだけで発表会に挑み、ハルンのプロ昇格が決まったのだ。
 このときも、「プロという扱いにしておいたほうがバレエ団側が親のないポケモンを保護しやすいからでは」という噂が流れたが、真偽のほどは定かではない。
 しかし、サーナイトのハルンはそれからも、しなやかなグランジュテでファンを虜にし続けた。
 それは目の前のテルロも同じ――


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